早稲田大学石田研究室


機器を利用した運転者教育における映像の提示効果に関する研究

三品 誠



1. 背景
 2003年の交通事故死者数は7,702人で,1957年以来 46年ぶりに 7,000 人台まで減少した.しかし死傷事故件数・負傷者数は前年よりも増加しており,交通事故は依然として大きな社会問題である.交通事故の予防には,@道路などの環境を整備する工学対策,A車両の予防安全能力の向上,B法規制の強化,C教育による運転行動の改善,など様々な手法がある.本研究は,これらのうちCの運転者教育のうち,特に映像を利用した運転者教育をテーマとする.
 筆者は,運転者教育に用いる「運転シミュレーター」「運転操作検査器」の開発・製品化・導入に10年以上にわたって携わってきた.これらの教育用機器の開発過程で教育や検査に関するさまざまな課題に遭遇したが,それらのうちで最も大きな問題は「装置を用いた運転者教育の方法論が未熟である」ということであった.本研究の個人的背景となっているのはまさにこの点である.シミュレーターを用いた運転教育で,交通状況に対する正しい対処をほめ正しくない対処をいさめる,という手法は「オペラント条件づけ」を構成すると考えられる.一方,自動車の運転では,シミュレーター教育で遭遇するのと同様の場面に実際の運転で遭遇しても,なんとか無事故で切り抜ける頻度がかなり高い.教育によって正しい対処方法を獲得したとしても,実際の交通場面で正しくない行動を行ったときに何事もなしに済んでしまうことは,「無強化による消去」過程を構成する恐れがある.このことが,一度はオペラント条件づけによって獲得された正しい運転行動の持続性を薄めている可能性がある.
 本研究の長期的な目的は,映像機器を利用した運転者教育において,効果が高く持続性の優れた手法を開発することである.この目的の実現に向けて,研究をいくつかの段階に細分化して順次実施することを計画している.

2. 目的
 [図1]の上半分に実際の運転における運転者の習熟過程を,下半分に模擬環境,すなわち映像機器を利用した模擬的な運転状況における学習の過程を模式的に示した.実際の運転では,たとえば「ひやりハット」するような体験を通して次第に安全な運転行動が身につくと考えられる.
本研究の対象は,[図1]のうち,基礎的な部分に属する,次の二点である.
@ 実際の運転において,「ひやりハット」体験をした際の生理反応はどのようなものであるか.
A そのような生理反応が模擬的環境でも再現できるか.映像提示方法によって反応が異なるか.
具体的には,本研究の目的は次の2点である.
@ 運転中に皮膚電気反応・心電図を記録し,特に緊張度の高い場面に対する反応に着目して運転中の,それらの指標の変化特性を明らかにする.
A 録画した運転映像を被験者に提示した時の皮膚電気反応・心電図を分析することにより,映像提示時に被験者に課した課題や提示映像の場面危険度がこれらの指標にどのような影響を与えるかを明らかにする.

3. これまでにわかっていること
 緊急事態に遭遇すると,精神性の発汗や心拍の増大が生じることがある.このような反応を Cannon (Walter Bradford, 1871-1945)は "fight or flight reaction" と呼び,闘争あるいは逃走するための身体の準備状態として捉えた[Cannon 1915].この反応は生理学的には,交感神経系の活動亢進と,それに伴う副腎髄質からのアドレナリン分泌の増加によって説明される.
このような急性の情動ストレスに対して循環器系はおおむね以下のように反応する[シェファード 1983, p170-172].
心臓:交感神経活動の亢進,および迷走神経活動の抑制反応により心拍数と心収縮力が増加し,心拍出量が増加する.
血管:骨格筋への血流量は増加,皮膚静脈は収縮,内臓への血流は減少する.
これらの反応は,体内各部へのエネルギー供給媒体としての血液の流量分布を制御し,エネルギー供給を増大させることによってリソース配分の最適化に寄与する適応的な反応である.
自律神経活動の指標として用いられるものには,心拍,血流,呼吸,皮膚電気反応,体温などがある.これらのうち,非侵襲的方法で比較的高い時間的分解能が得られるものとして,心電図(ECG: Electrocardiogram)による心拍,脈波による血流,皮膚電気反応(EDA: electrodermal activity)などが一般的である[宮田 1998].
心拍は昔から疾病の診断に用いられ,ストレスに対する評価にも利用できることが知られている.また近年,心拍数に加えて,心臓の拍動間隔のゆらぎ(心拍変動)に含まれる情報を解析して臨床的に活用しようとのこころみがされており,心拍変動(HRV: heart rate variability)は急性心筋梗塞の不整脈死の強力な予測因子であることがわかっている.[早野 2001]
心拍間隔(R-R 間隔時間, RRI: R-R interval)にあらわれるゆらぎ成分のうち,0.1Hz 前後の低周波数成分(LF)と,0.3Hz 前後の高周波数成分(HF)を分析することにより副交感神経,交感神経の活動状況を推定できることが予想され,実際にそれらの間の関連が生理学的な実験に
よって確認されている.[Pomeranz 1985] [Hayano 1991]
LF および HF成分の比(LF/HF) によってドライバーの心身負担や快適性を評価しようとの試みがなされている.[野口他,1996]

4. 手法
本研究で利用した研究手法は,精神生理学的手法に属する次の二つのものである.
(1)皮膚電気反応(EDA : electrodermal activity)
通電法によりDC成分を含む皮膚コンダクタンス水準(SCL)と低域成分を電気的に除去した皮膚コンダクタンス反応(SCR)を同時記録した.
(2)心拍変動(HRV : heart rate variability)
心電図(ECG: electrocardiogram)波形として記録したデータから,「基線変動の除去」「RR間隔抽出」「異常値の除去」により「心拍 RR 間隔データ」を得た.これに対して周波数分析を行い,自律神経活動指標であるLF 成分(0.04〜0.15Hz),HF 成分(0.15〜0.4Hz)のパワースペクトル値を求めた.周波数分析には「高速フーリエ変換」( FFT : fast Fourier transform),「連続ウェーブレット変換」(CWT : continuous wavelet transform ),「最大エントロピー法」(MEM : maximum entropy model)を目的に応じて使い分けた.数値的評価は主として MEM により行った.

5. 研究1(具体的な方法および結果):
実車走行中の心拍および皮膚電気反応の検討
被験者(運転者)は筆者自身(45才,男性,運転経験27年)で,自己所有の普通乗用車で公道を走行して心拍及び皮膚電気反応の記録を行った.

5.1. 夜間の幹線道路走行
21:50 前後,晴れ.幹線道(片側2車線)走行中,赤色灯点灯中の停車車両を発見し通過した場面,及びその前後.これらの車両は交通事故現場を事後に検証していた警察関連車両と思われる.
この場面を含む前後 380秒間について,10秒ずつの区間に区切って MEM で周波数分析を行って得られた LF パワーの値を,SCR時間積分値とともに[図2]に示す.心拍・皮膚電気反応ともに,赤色灯発見の前後に非常に激しく変化している.対象場面でこれら2指標はほぼ同様の動きをしており,それ以外のいくつかの SCR ピークの部分でも対応が見られる.この結果に関して相関分析を行ったところ,SCR と最も高い相関を示した心拍関連指標は,「LF/HF パワー比」であった.「LF パワー」および「MEM による予測誤差の分散(Pm)」がこれに次いだ.


5.2. 市街地走行
17:28 前後,はれ.市街地を走行した 11分間について,10秒ずつの区間に区切って MEM により周波数分析して得られた LF パワーの値を,SCR時間積分値とともに[図3]に示す.この区間には,皮膚電気反応,心拍に変動のある部分が多数存在し,それらの多くは交差点通過時に対応しているが,必ずしも緊張を強いられる場面ではなかった.LF パワーと SCR との間には明瞭な対応関係は認められない.また,各指標間に特筆すべき相関関係は見出せなかった.


6. 研究2(具体的な方法および結果):
 映像提示による心拍および皮膚電気反応の検討
あらかじめ録画した運転映像(動画ビデオ・音声なし)6種類を 30秒ずつに編集し,テレビモニターで被験者に提示した.被験者は運転免許を所持している男性6名(平均年齢21.8歳,標準偏差 1.9,免許取得からの経過年数平均 2.4年,標準偏差1.6年)である.被験者には映像を提示している間,下記の3種類の課題を与えた.
(1)「注意」:運転している時と同様に注意する
(2)「報告」:注意した個所を場面終了後に報告
(3)「操作」:映像にあわせてハンドル・ペダルを操作
また,6種類の場面は次の2群に分類した.

「場面危険度:高」群
H1:二輪車が左から前方に割り込む
H2:見通しの悪い交差点で左側から右折車両
H3:踏み切りで交差する道路
H4:直線路でのボールの飛び出し

「場面危険度:低」群
N1:対向車線に停止車両のいる直線路
N2:まばらに対向車のあるゆるい右カーブ

 各被験者に,6場面を異なる3種類の課題で都合3回ずつ提示した.課題および場面の提示順番はカウンターバランスした.
 各場面の「正規化SCR時間積分値」被験者間平均値(被験者ごとに全試行の平均値で除した相対値)を課題別に[図4]に示す.場面「H4」が各課題共通に最大であった.また,各場面の「パワー比 LF/HF」被験者間平均値を課題別に[図5]に示す.課題「注意」において,「N1,N2」が他に比べて低い値を示した.

7. 考察
7.1. 心拍変動の解析手法について
本研究により,FFT, MEM, CWT はどれもそれぞれに特徴のある分析法であることが確認できた.
本研究を通して得たそれぞれの手法に関する知見を踏まえると,これらの手法の効果的な適用法はたとえば次のようなものである.

(1)全体的な傾向を時間−周波数の両面から手早く知るには CWT が適している.
(2)30秒程度以上の時間区間でパワーの数値的な評価を行うためには FFT が扱いやすい.
(3)FFT の適用限界を超える 10秒程度のごく短い時間区分に対しても,MEM を用いると LF,HF の区分スペクトルパワーを得ることができる.
(4)MEM によると,HRV データの「規則性−乱雑さ」指標である「エントロピー」を数値的に得ることができる.この値は,HRV の発生メカニズムに関連する何らかの情報を与える可能性がある.

7.2. 研究のまとめ
実走行では,大きな緊張を伴う運転場面で EDA,HRV ともに強い反応が現れることがわかった.また,市街地走行では交通環境や運転行動に関する情報を含めた多元的な解析が必要であることがわかった.
映像提示による反応では,EDA と HRV で場面に対する反応傾向に差が見られた.交感神経活動指標とされるパワー比 (LF/HF)は,課題「注意」においてあらかじめ設定した「場面の危険度」低群が高群よりも小さかった.しかし,他の課題や SCR ではこのようには分離しなかった.これらの指標,課題による結果の違いは,運転映像に対していだく「緊張度」の指標を多次元化できる可能性を示唆する.たとえば EDA がより「探索的・予測的・認知的」な危険感に対応し, HRV は「差し迫った危険に対する・反射的な」反応に対応する可能性がある.

7.3. 今後の課題
EDA と HRV の反応パターンの差が,運転場面や提示された映像に対するいかなる反応の違いに対応するものであるのかを明らかにすることが,本研究の直接の発展的課題である.そのためには,交通状況や運転行動,被験者の主観的な評価を組み入れた実験計画が必要であろう.今回の研究の周辺で探求すべきテーマは多いが,今後はこれらの研究を積み重ねつつ,実際の運転者教育に用いることのできる教育手法の開発を実現したい.



8. 文献
Cannon 1915 : Cannon, Walter Bradford. Bodily changes in pain, hunger, fear, and rage : an account of recent researches into the function of emotional excitement., D. Appleton
Hayano 1991 : Hayano J, Sakakibara Y, Yamada A, Yamada M, Mukai S, Fujinami T, Yokoyama K, Watanabe Y, Takata K. Accuracy of assessment of cardiac vagal tone by heart rate variability in normal subjects. Am J Cardiol 1991 Jan 15;67(2):199-204.
早野 2001 : 早野順一郎 心拍変動による生体ストレスの状態評価と未来予測,JSAE SYMPOSIUM ドライバ評価手法の原状と将来,自動車技術会,1-11
宮田 1998 : 宮田洋[監修],藤澤清,柿木昇治,山崎勝男[編] 生理心理学の基礎(新 生理心理学 <1巻>),北大路書房
野口 1996 : 野口義博, 豊福勝也 人に優しいクルマ作り 心拍変動性指標による車両評価方法の検討,自動車技術,Vol.50,55‐60
Pomeranz 1985 : Pomeranz B, Macaulay R J, et al. , Assessment of autonomic function in humans by heart rate spectral analysis, Am J Physiol, Vol. 248, H151-3.
シェファード 1983 : シェファード,バンフート[著], 今井昭一ほか[訳] 人間の心臓血管系 : 図解病態生理とその理論的考察,西村書店
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